最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

酒こそが六道の象徴である

自粛で自由になる時間が増えるとこのくらいならよいかという甘い気持ちが生じてしまい未熟な者はどうしても酒量が増えてしまうはずである。

そこに異姓がいれば情が絡むしお金があれば散財する。

霊界からみるとそのちょっとが天地の開きなのだ。

酔い心地、それは終わりのないただの夢界である。

さらに飲み過ぎて昼夜逆転しているような生活ではじきに心も体も壊すことになるだろう。

肺炎と区別がつかない初期症状でうんざりするような時間を何日も過ごさなければいけなくなる。

 

生活を正すとは太陽と共に生きるということだ。

生体リズムが太陽と同期することで忍耐力がオンの状態になる。

人はすぐには変われない。

習慣として集積したものを変えていくためにはそれなりの時間が必要なのだ。

3日、3週間、3か月、3年というのは区切りとしてとても意味がある。

 

神仏の特別な許しがない限り、酔って教えを語ることは強い願望を吐露しているだけだ。

そこには教えに対する憧れだけしかない。

自分自身がそこに一如できないもどかしさに興奮してしまっているだけである。

惜しい気持ちは分かるが、それは祈りとは全く違うのだ。

 

素晴らしい人はいつも腰が低く態度にムラがない。

穏やかで静かで温かなユーモアがある。

これは芯が本当に強くないと出来ないことである。

優しいから出来ることではない。

優しさとは強さの結果のようなところがある。

 

この自粛期間は神仏が人類に与えて下さったモラトリアムである可能性がある。

ここで遊んでしまってはおそらく後悔するだろう。

まず酒をやめて生活態度を改める。

経験上これが揺るぎない根元であるように感じる。