テストで100点をとる。
これは出題者の期待に100%応えることができたということである。
相手の立場に立つことができたという証明である。
つまり、これを密に表現するならば、思いやりの証明であるともいえる。
出題者は間違いなくうれしいはずである。
もちろん勉強がでれば思いやりのある人といえるわけではないが、出題者の意図に気付くためのトレーニングは、人を思いやることに通じていることは間違いない。
逆に勉強をしないというのは、自分にしか興味がなく他者の気持ちが理解できないということに繋がる可能性は多分にある。
大人になってからでも同じような経験はする。
学問においてよく書かかれた概説書は非常に論理的であり言い換えれば書き手の愛情に満ちている。
読み手がそれをどれだけ読み取るかということになるが、この交流こそが読書の妙味である。
信心信仰においてはまさにとも言うべきであろう。
密教においては御仏と行者が入我我入するのである。
そこに宗教的なビッグバンが起こるのであろう。
ここでも神仏と人との交流がある。
そのように断片的につらつらと普段から思っていることを子供に伝えたいが、なかなかうまくいかない(笑。
ともあれ、オンライン授業では不十分だろう。
教育とは人と人との感化であるからだ。
学校の早期再開を希望している。
毎日プリントドリルばかりでは形ばかりで勉強とはいえない。
友達と一緒に学んではじめて心の成長も伴うからだ。
(以上は、子供の貴重な時間を奪った中国共産党を私が絶対に許さない理由でもある。)