キリスト教のいうところの神とは具体的な存在であるならば宇宙人的存在なのではないだろうか。
最近教養としてyoutubeでいろいろな解説を聴くようにしているが、そのように感じている。
我々仏教徒からすると全知全能の存在たる神といえども宇宙的な法則には従わなければいけないと観察するのである。
我々の創造主であるから我々を慈しんでくれているという見方は仏教徒からするととても六道的なものに映る。
こう書くと仏像は何なのだと思う人もいるだろうが、多くの仏教徒は仏像の法身を観じてそこに帰命していく。
不動明王様は釈尊がお悟りを開かれた時の境地を表現されたものとされている。
仏像という形をみているだけではそれは分からず師からの口伝などを通して無形たるその法身を見出していく。
もしキリスト教が神とは宇宙の法則そのものであるのだよと説明されるのであれば、仏教の特徴はカルマの説明に尽きるのかもしれないが、ここは天才同士の霊的な対話が必要になってくるだろう。
仏教においても密教では師匠に帰依していくところがさらに特徴的である。
向かい方はある意味キリスト教的であるかもしれない。
師匠は如来様であるから、仏教徒でも原始仏教を好む者はここで詰まるだろう。
しかし、奥に入ればその温かさが理屈を超えていく歓びがある。
これがまさに密である。
聖書の預言による艱難時代。
神の言葉ということなので仏教徒も意識せざるを得ない。
ただ、我々にも護法善神様がおられる。
その功徳に浴するという確固たる道もまたある。
そして、さらにそれ以上に仏の智慧というものはあらゆる存在が修めるべき究極の法であるということである。