最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

学問における人間像について

理論的といわれる文章においても、理由と結論を繋ぐ見えざる経験則のうちには損得勘定で動く人間観が潜んでいることが多い。

 

唯物論的というか科学万能的というか、学問において想定される人間像は、欲望を当然視し損得勘定で行動することが予定された人間像であるように思う。

そういう行動を人間の限界とするかのように悲観的な意味合いで合理的と表現する場合が多いように感じるし、そもそも人間の性質についての探究にあまり進歩があるように思えない。(教科書の記述に変化がない。)

したがって、最初から学問には魂の救済はないのではないかと思う。

 

以前の投稿でも触れたけれども、私はそういう理由から若い頃学問をかなりなめていた。

今では役に立つ範囲では学問に対し敬意をもって接するようにはしているけれども、究極においてはやはり昔と変わらず懐疑的であるのかもしれない。

 

今思いついた一例としては、尾畠春夫さんのような生き方を経済学ならばどういう言葉で説明するのだろうか。

おそらくそれなりの説明はつくのだろうが、数字に出てこない部分があるはずでそれをどういう言葉で包括するのか少し興味がある。

(ちなみに私は功利主義は間違っていると思う。余談だが、今ジョンロールズの正義論を読んでいる。穏当な説であり私は好きになれそうだ。)

 

仏教における人間観は、仏性の存在に昇華される。

善なる個性を活かすということに尽きる。

人の死すらも一つの変化に過ぎず、現在の様々な生まれや環境は、各々の因果律で説明され、仏性の存在をかすがいとして、差別即平等と観念される。

学問で想定される人間観のように即物的な反応を繰り返す生き方は苦のもとであると唾棄され、戒定慧を通し、六道の輪廻から智慧による解脱が勧められるのだ。

 

こうしてみると仏教と学問は水と油である。

当面は双方の良い部分を補い合って活かし合うしかない。

木に竹を接いだような感じであるが、これしかないだろう。