福沢諭吉時代の知識量は、中学生レベルであったと聞いている。
しかし、彼らのその運用力は抜群であったと思う。
それは明治時代の様々な輸入概念の訳文に現れているかもしれない。
また、彼らの時代は欧米へのリスペクトがあり驚くほど迷いがない。
今はどうか。
今は知識量というものはあまり問題視されない。
というのも、調べれば分かるものばかりであるからだ。
ただ、情報も玉石混交であり、どちらかというと情報を調べた上での取捨選択力が問われている。
これが思いの外難しく、迷宮入りする可能性がある。
昨日も触れたが、無色界の迷いである。
結局、情報量に惑ってしまい、様々な思想上の世界が乱立してしまっている状態だ。
権威の力の低下も著しい。
これは今世紀の課題であると私は考えている。
ともあれ、知識を披露したところでもうほとんど意味はない。
知識を事物に適用したときの姿の方が価値がある。
経験談のようなものが一番よいだろう。
もしくは、かなりハードルは上がるが、知識の体系論だ。
そういうものなら買ってもよいかなと思える。
最近は、知識は少数精鋭でよいのかもしれないと強く感じる。
人生の残り時間を考えるならばなおさらだ。
たとえば、仏典の一節や特定の学説を磨き抜くなどだ。
知識はそれ自体では価値はない。
銀河のような体系美を備えるか、それが現実生活に活かされるかした時に価値が出てくる。
信心信仰に生きる者にとっては、どちらかというと後者にウェイトをおくかもしれない。
知識の体系美というのは学者の領分ともいえるからだ。
知識の運用力とは、観念をしっかり定めて速やかに実行する力である。
しかし、その前提においてまず拠るべき知識を選択しなけばいけない。
ほとんどの人はこの選択に迷いに迷っているうちに時間を浪費している。
知識を本当の意味で運用している人はあまりいないのではないかと感じるくらいである。