人権とは一体いかなる概念なのか。
対概念は、公共の福祉になろうか。
公共の福祉の担い手である公務員が一人自殺した。
多くの日本国民が担当公務員のその公務に多大な期待を寄せていたにもかかわらずだ。
病気を疑われている人は、公共の福祉による制限から自らを防御するために人権概念を最大限に拡張して主張する。
教室事例のような事件である。
むき出しの民主主義を適用すれば直接投票が最も相応しいだろう。
その結果、中国から帰国した者は皆隔離されるだろうと思う。
おそらく多数者は少数者を許さないだろう。
しかし、それでは少数者の人権を常に守れないということで、現在では民主主義は討議を尽くすために間接民主制が原則され、さらに立憲主義をも貫徹させる。
その結果は今のところどうだろうか。
民意に反し、国会議員や安倍政権は中国に忖度し、国内感染をここまで許してしまっている。
立憲主義の適用の結果、のちになって行政行為が裁判所により違憲という展開になることも考えられるが、現実の生活に対し、それに何か意味はあるのだろうか。
今回は公務員が自殺したが、公務員により殺されるということは常にあり得る。
私は、自分が冤罪の当事者とされた場合を常に念頭において政治を考えている。
ある意味、左翼が最も得意とする思考法であるけれども、これは純粋にリベラルの思考であるから混同しないようにしないといけない。
三島由紀夫も刑事訴訟法を絶賛していたが、彼もまた根はリベラルなのだ。
人権に自制を読み込むことができない人間は保守ではない。
正しい保守思想は、人権に自制を読み込むべきだ。
中国から帰国した人は、「ありがとうございます」という気持ちを持つべきだった。
そうすれば、担当公務員は自殺しなかったはずである。
公務員をみればすぐに噛み付くのが左翼思想である。
しかし、それは絶対に間違っている。
敬意や尊重といった政治道徳がなくなれば、どのような制度も機能しないからだ。