必ず立ち直れる。
はやく切り替えることができる。
この確信があればこそ、諸々の感情の起伏を恐れることがなくなる。
無感覚になる必要はない。
反応するかどうかを自分で決めていくのだ。
相手の悪意ある挑発になぜ乗ってしまうのか。
自分に自信がないからだろうか。
私はそう思っていた時期が長かったかもしれない。
しかし、そうではない。
思考の罠に気付いていたなかったからである。
どれだけ自信があっても、いや、自信があればあるほど思考の罠にはまり相手の挑発に乗ってしまうに違いない。
止まらぬ思考をそういうものだと知れば、今の自分を観察できる。
痛いなという感覚もあるが、観察が可能ならば、何よりまず自分をいたわることができるだろう。
呼吸を中心にしていれば、自然と好ましくない状況は離れていく。
必ずもとにもどる。
この確信があればこそ、しばらく耐えることができるのだ。
自信とは、つまり、この確信のことであった。
あとはもう己の細胞を活かし切るだけである。
そのまえに、どれだけ怒り憎しみをもったことで細胞を痛めてきたか。
自分に謝罪することからはじめるとよい。
五戒を守る。(意味のわかる経典で)読経をする。
こういったことは、(できるだけ)思考で苦しまずにすむための(初歩的な)智慧でもあった。
思考自体を浄めることも大切である。
心、口、意の浄化の一環となろう。
ただし、何よりも今は止まらぬ思考の仕組みに気付くことが大切である。
それを空といってもよいかもしれない。
我々はどのみちこの世の衰運に関わらざるを得ない。
悪とも対峙せねばいけない。
瞑想をもって正気を保つという行き方がなければ突破できぬ未来が待っている。