仏の教えを学ぶと、学問の世界がとても陳腐に思えることがある。
学問のいう真理の探究における底の浅さに。
自分も二十歳時代学問をなめていた。
大学ではいつも講義はうしろの席でやる気が出なかった。
社会科学が想定する合理的な人間像そのものについていけなかったからだ。
出発点がダメならゴールもダメだろう、という感覚でいた。
しかし、社会でもまれ理想が様々な現実に押し戻されていく中で、保守の感覚に気付き、この世の相場というものが実感として分かるようなってきたとき、学問を見直すようになった。
よく整理できている、使えるな、という実感である。
自分の場合は、現実社会を通して、学問というのは、掃除機や洗濯機と同じように、道具としての存在であるならば役に立つということに気付いたのだ。
28歳くらいの頃だったと思う。
確かに学問の知見は限定的ではある。
しかし、それをひとつの道具としてとらえれば、役立てることは可能なのだ。
学問の知と教えの智慧は似ているようで別のことだ。
学問の知は枠組みに近い。
ここをはきちがえると、学問の知を頭から否定することになる。
なめていく態度になっていく。
学問の知を役立つように教えの智慧で導いていく。
これが最も正しいマインドセットだろうと思う。
敬意をもって学問に触れていくと、不思議と論理も熱をもってくる。
本から学ぶ場合、著者への感謝はとても大切だ。
批判、反論も自己顕示欲からではなくあくまで使いやすさのために行う。
勉強は、いい道具を作っていこうという気概でのぞむ。
そうすれば信心信仰と矛盾することない。