最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

関暁夫氏の番組をみて

久々にテレビをみた。

関暁夫氏のやりすぎ都市伝説、なかなか見応えがあった。

行者へのインタビューは最高だった。嬉しい気持ちになった。

悪いことをしている時間はないという最後の言葉には感銘を受けた。

そう、余裕はない。

 

ところで、キリスト教にいう神と仏教における神は実は位置づけが違う。

仏教において神とは人界のひとつ上の世界に過ぎない。

私はキリスト教カトリックの大学を卒業しているので、少し語らせてもらうと、おそらくキリスト教の神とは仏教における因果応報の理法に相当するのかもしれない。

仏教の神という概念からすると、宇宙人の存在は否定されないだろうと私も思う。

また、仏教の世界の霊山の中心を須弥山(しゅみせん)というが、おそらくシュメールと関係はあるのだろう。

ちなみに、天皇をスメラミコトというが、ここにも何か縁を感じる。

 

ただ、私が思うに、クババもまた作られた存在ではないかということである。

仏教は神々ですら憧れる生き方を想定している。

そう、それが菩薩道だ。

 

関氏と意見が異なるのは、ネットの書き込みをAIが審査しそれにより人類を選別するということが将来あったとしても、それは本当の選別とは関係はないと私は思っている。

AIの選別から漏れること自体は全く脅威ではない。

おそらく、もっと魂そのものから生じる微細な波動のようなものが審査の対象になると思う。

もしより高次の存在が人類を選別するようなことがあるとすれば、独自の判断でそれが行われるはずである。

おそらく自分助かりたいと願う者は真っ先に選別から外されるはずだ。

仏の教えに引き直せば、神仏の祈りに近い者から順番に救われていくだろう。

 

このブログで説いてくることもまた私の師から受けた教えに基づいているのであるが、自分の人生に余裕が出来たら他者のために生きていこうというのでは、永遠に神仏と接する事は出来ないということである。

他のために先にしその後に自分のために行う。

この順序が大切で、これはどんなに自分自身が苦しかろうとも曲げる事が出来ない真理ということを肝に銘じておかねばいけない。

成功とはお金持ちになることではない。

真理に適った生き方をすることだ。

怠らず励めとこれがお釈迦様の最後の言葉です。