よくそういう説明をみる。
しかし、本来の自分というものを欠けたものとみなしているとしたら、それは現状追認の言い訳のための説明のすりかえだろう。
そもそも満たされている自分を自覚することが修行の目標であったはずだ。
無論、自己の心も肉体も修行に必要だからこそ大切に扱わなければいけない。
しかし、そのことと本能的な保身とは全く次元が異なる。
本能的に満たされていなければ他人を大切にできないなど言っているような人は白い衣をまとった悪魔の手先だ。
分からなくなったら、実際にまず先に他に与えていくことだ。
その後に自分のことをする。
この順序こそ真理に適うのだ。家族でも友達でも今から出来る。
これが出来なければどれだけ言葉を駆使しようとも霊的な成長は全く見込めない。
むしろ地獄へ近づきつつある。
確認しよう。
苦しいことは自分が約束を忘れていない証拠だ。だからそれはそれでよいのだ。
心のバランスは崩れるに決まっているだろう。
その崩壊の先にある自他の区別のない力強い芽生えを待て。