子供が保育園の年少児だったときの年中、年長だった子供達は、遠巻きながらも、その成長を見守ってきた。
やっぱり、可愛いからだ。
その年中だった子供達が今日、小学校を卒業した。
うれしくも寂しい。
いろいろあったことが宝になる。
様々な感情を体験して、子供だからこそぶつかり合えるなかで成長していけるのだ。
そこには子供の世界があり、子供は必死の生を生きている。
小学校6年生ともなれば、純粋な視点から打算的なことを拒否するだろう。
刹那的には大人以上に大人であることがあり得る。
そうとはいえ、親はハラハラする。
先日、私も子供が何度も同じクラスメイトの名前を口に出して愚痴をいうようになったので、自分の気持ちを先生に伝えるようにと子供を通して担任に話を通し、最後は私も面談した。
担任は、特定の生徒を狙い撃ちにするようなことはしないので、子供同士の話をきいて判断するわけであるけれども、事実の認定は曖昧で、おそらく当人たちも本当のことについては触れてはいないだろう。
しかし、一度は担任話を通すということ自体に、万が一の場合には、法的に意味があるので、私はそうしたわけである。
話を戻す。
今日卒業した6年生たちも、美しい思い出ばかりではなかったはずだ。
仲の悪い子もいるに違いない。
イジメすれすれのような意地悪もあっただろう。
しかし、うちの子の話によれば、みな卒業式で泣いていたとのこと。
それが尊い。
生きる原動力が真っ赤に燃え上がっているではないか。
成長に繋がったのだ。
美談に持ち込む必要などないのだ。
うまくいったことがよいことではない。
その時は地滑りのように退歩したかのように感じたとしても、歯を食いしばって一つ一つ真摯に向き合うことが後に活きていくる。
私はその姿を今日の卒業式に少し見た気がする。
子供達に感謝したい気持ちでいっぱいになった。