最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

常に光を増していくような祈りを持っていくこと

団結や絆を叫べば逆効果になる。

偽善というような低レベルなことを言いたいわけではない。

それぞれ境遇が違うのであるから思慮が足りないということである。

配慮のなさが刃なのだ。

機根をしるための努力がないのである。

 

まとまる力というのは各々が生きる道を歩んでいる時にしか生じない。

チームになるためには個の充実があってこそである。

日本は今そのまとまる力が弱まってきている。

他者に対する無関心がなぜ起こるのか。

それは個々人が生きる道を見失いつつあるからである。

多くの人が自分のことにかかりきりになりつつある。

もちろん自分の中には身内を含む。

 

一見活力ある活動もよくよく観察すると人の心を省みることを知らない者達だけが目先の利益のために利用し合っている状況でしかないことがほとんどである。

 

まともな人ほど孤立気味ではないだろうか。

道理を説いたとしても世俗の価値に染まり切った者には届かず説いた者の貧しい身なりをみて軽蔑をするかもしれない。

逆に、説いた者の豊かな暮らしぶりをみてよいことを語れるのは余裕があるからだと納得しないかもしれない。

このように多くの衆生は自分という苦しみの沼にはまり込んでいくだろう。

 

荒れた時代である。

わざわざあえて無理に声などをかけることもない。

挨拶バカになることもないだろう。

そういう形はもうどうでもいいのだ。

ただ、何か行動する時にそれが何か他者のためになっていればいい。

ありがとうと言われて笑顔ならば笑顔で接してもいい。

何も言われなければ、それはもうそのままでいいのだ。

 

正気でいればいるほど胸が痛むことの方が多いはずである。

人々の性根が読めてしまうようなときほど辛いに違いない。

だから孤立気味になる。

しかし、光を増していくように祈るならば、何も問題はない。