最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

教えを人生の目次にしていく

最初から新しめの考え方に飛びつかないことは大切なことかもしれない。

やはり通説と言われるようなことにはそれなりの理由があるからだ。

もちろん、それで貫徹しろという話ではない。

主に頭の整理の問題としてである。

結局、多数の者で議論をする場合、通説はIDとパスワードのようなものだ。

それがないと議論の分岐がみえてこない。

この隠れた前提を甘く見ると効率が最終的にとても悪くなる。

新しい説は通説を前提としていることが多いのでまず学び直しの憂き目にあう。

 

このようなことは私の反省を込めて学生には伝えておきたい。

考え方というのはそれほどバリエーションがあるわけではない。

論じる順番というものも伝統を踏まえていることが多い。

本を読む時は索引に頼ると大変なことになってしまう。

本だけ買って本棚がない状態とでもいったらよいだろうか。

索引ではなく必ず目次を頼るようにしよう。

おそらくこれが学びの極意である。

 

さてそのまま教えに話を移そう。

私は一分一秒を大切に生きるという新たなチャレンジをしたい。

これは急ぐということではなく意識を教えに即して濃密に生きるということだ。

かつて師匠は新聞の切り抜きひとつでも定規を使って丁寧にやっていたと聞いている。

一つ一つの所作としての動きはゆっくりだったかもしれない。

しかし、一つの事に真心を込めるという姿を自分は学んだ気がする。

 

教えを人生の目次にしていく。

読経を通して大局的にカチッとはまってくる体験があったが、この体験によって細やかなところにも自然に意識が向かうようになった。

昔必死に細かい部分に取り組んだ時期もあったが結果は疲弊した。

今思うとその原因は大局的なところを誤っていたからだと思う。

これからは一体的に一分一秒を生きていきたい。