本物の行者は、他の仏性に仕えることを通して他の悪とある意味次元を異にして生きている。
彼らは他の仏性を開発するために修行をし説法をする。
同時に、それが己の仏性を開発することでもある。
もちろん、その過程で誹謗中傷を受けることがあるが、行者にとってその痛みは自らの修行の過程に過ぎない。
彼らは他の迷いの目を気にして委縮するということはない。
翻弄されていないように見えるということだろう。
実際は苦労の連続であるはずである。
ただ、凡庸な自分に引き寄せたくないが。
しかし、よく風雪に耐えたものは強い。