最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

最後の最後まであきらめずにただ成長を目指す

私はかなり遅くになってから運動を始めたわけだが、振り返ってみると、一緒に走ればよかった人など今思えばもっとあの時いろいろ教えてもらえばよかったと思わざるを得ないようなチャンスは何度かあった。

しかし、あの時の私は全くの無関心だったのだ。

 

こういうことはよくあることなのかもしない。

急に気付くというやつである。

 

人身受け難し今すでに受くという一節から始まる仏教教団は多いと思う。

やはり人に生まれたということに気付くところが最初である。

それがいかに尊いかということである。

そして、さらに仏法にも知遇したということである。

この確率を考えてもみよということである。

 

仏法は言葉や文章としてはもはや隠されてはいない。

誰でもアクセスしようと思えばアクセスできる情報体である。

しかし、それを本当に読めているかといえば話はやはり別になってくる。

ここである。

活かそうと願う者とそうでない者とでは天地の差が生じているはずである。

いや、活かそうと思っていてもさらにグラデーションはあるだろう。

 

厳しいが、どれだけ年齢を重ねても成長をあきらめてはいけない。

成長をあきらめるとはそれはいつ来るか分からぬ気づきの機会を放棄することである。

なすべきことをすべて成し終えたとはとても言えないのが凡夫の常である。

死というゴールにおいてすら満点はあり得ないだろう。

心には苦しみや憂いがある。

これが通常である。

その状態から成長をあきらめないことは難事であることには違いない。

しかし、やはり道はそこしかないのである。

私は頑張っている人が大好きであるし、そういう人にいつも励まされている。