日本人は、善意には善意が返ってくるものとして行動しているところがある。
恩を売るという言葉があるが、それだ。
しかし、これは外国人には通用しないことをそろそろ日本国民は知らねばいけないし、善意とは覚悟であるという本当の本質もまた知らねばいけない。
因果応報として善因善果、悪因悪果という真理は普遍である。
しかし、善果を目指す心の働きは実は邪なのである。
目的を持った時点でそれは穢れだ。
本当の善意というのは善意自体ということである。
ここをしっている人は、本当に少ない。
安倍政権はこれで恩を売るつもりなのだろうが、絶対に失敗する。
習近平は政治的侵略のために日本に来るつもりなのである。
そして中国共産党が安倍政権との約束を果たすこともない。
約束を破ったと日本は騒ぐだろうが、それがどうした?だろう。
今日本は中国共産党に対し毅然と理性において責任追及をしてよいのである。
そこを忖度するからむしろ相手は意味が分からなくなってしまう。
日本はぎりぎりまで忍耐を示して堪忍袋の緒が切れたときに苛烈な行動に出るが、外国人にしたらその意味が分からないのだ。
おそらく日本はこの問題でもう一度やらかすことになるだろう。
戦う時は戦えなければだめだ。
ヘラヘラして相手のご機嫌をとることは穢れた行為である。
言い難いことを言えば、それは悪口になるかもしれないし、三悪道に堕ちることになるかもしれない。
しかし、それを恐れることもまた聖なるものから離れることである。
過不足なくはっきりものを言うこと。己の未熟さを隠さない。
これが大切である。
秘訣はある。
神仏を盾にしてしまっていないかよく省みる事だ。
たとえば、相手に合わせて酒を一緒に飲んで教えを語ることなどはその最たるものだ。
それはそういう場で辛うじて神仏を語ることで惰弱な自己を守っているだけである。
善意は惰弱な自己から生じた怖れの結果であってはならない。
迷いのない善意であれば、断ることにもためらいはないはずである。