最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

憎悪を解消する道

前回の記事で、本当の自信とは心の切り替えが可能であることについての確信であるということを書いた。

とはいえ、想念を浄めていく方向も大切である。

ここについては、神仏を中心にせざるを得ないだろうと思われる。

世間的な価値に基づいてどのような思いを持ったとしても、必ず障害にぶつかるからである。

これは歳を重ねるごとに痛感する。

というのも、欲望の追及は肉体の衰えに必ず直面する。

 

他に与えていくことで自分が貧しくなるという思い。

これを打ち破ることが想念を浄めるカギだろう。

布施行が第一歩だ。

六波羅蜜

布施、持戒、忍辱、精進、禅定、知恵。

カルマを解消するという苦難を想い合わせながらこの順をみると、まさにこの順のとおりに意識が動くことがわかる。

 

伏せ込む。

痛みを減らす一歩は傲慢にならないことだろう。

かたくなってはいけない。

もっと柔軟に。空だ。

そして、一日一善という基本的な実践を堅持するだけでも激変に値する。

この理が真に理解出来たかどうかを知るすべはある。

嫌や人や嫌なことがカルマ解消のための試練であるという認識となっているかどうか。

これである。

このブログでは独身の確立という言葉で表現しているが、損得勘定にとらわれずにすむ唯一の方法は、己の全身全霊にのみこだわっていくことである。

自己に頼り切ることが大切だ。

それでもなおかつふりかかってくる苦難、ここにこそ浄化と成長の源泉がある。

(忘れてはいけないのは、我欲によってもたらされた苦難は何度でも輪廻するということである。これが地獄だ。)

 

その源泉を源泉と納得するためには瞑想がどうしても必要になる。

よく瞑想をしていく。

私は一日に40分から1時間している。

ここはうまく言葉をあてはめることができないのであるが、事象と自己の区別と事象と自己の一体化が同時に起こるような感覚が、起こる。

そして、落ち着いたなかで己の変革していくポイントを内観していくことができる。

これは怒ることではないなという腑に落ちた感覚というのだろうか。

瞑想後は速やかに穏やかな日常に戻ることができる。

 

時間を大切にする等々。

浄めた想念こそが行動の元となる。

行動あたりからはこのブログで繰り返し書いてきたとおりである。

何も変わっていない。

最近の私の変化としては、憎悪が減ってきたということである。

戦ってきた甲斐があったというものだ。

以前より想念そのものが浄まってきた。

活路はやはりある。

仕事、運動、勉強一つ一つがさらに尊くなっているのを感じる。