最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

極愛一子の境地から眺める人生の学びについて

最近は子供の問題集を自分で作るようにしている。

うちの子は1dlは100mlというのをいつも10mlにしてしまう(笑。

しかし、なぜだか100mlは1dlと答えることができる。

同じことなのに反対から聞くと途端に間違えてしまう。

また1000mlは?と聞くと10dlと答えるまでまだ時間がかかっている。

倍数も習い始めているはずだが、物事を関連させる力がまだないようだ。

これを放置しておくとさすがにまずいなと思い、これまで使ってきた問題集から間違えた問題だけを拾い出して今まとめているのだ。

 

よく思考力が大事と言われるけれども、覚えるべきことを覚えていなければ考える前段階の問題である。

そして論理法則がある以上、そもそも考える筋道は限られているのだから学校の勉強如きでびびるなと教えたい。

ひらめきが必要な問題などは別に解けなくてもいい。

そういう問題は天才に任せておけばいいからだ。

努力をすれば誰でも解ける問題をきちんと解けるようする。

それが80点ならば80点取れれば十分だと私は考えている。

普通でいい。

 

 

勉強よりも大切なことは正しい信心信仰である。

しかし、これは親として背中を見せていくことだけだ。

子供の辛い姿を親としてただ見守る時期が必ず訪れる。

人生は厳しい。

勉強は出来るのに脱落していった者はたくさんいる。

病に倒れる者、いじめや愛別離苦から心を病む者、事業で失敗した者、様々である。

いろんな種類の試練があるのだ。

私もかつて虚無に苦しんだ経験がある。

恥もかいてきた。

しかし人間は生きようとする。

運命を環境に決定されつつ自らが決定していく。

自分のうちに納得のいく人生の解答をどうしても求めようとするのだ。

長い葛藤を経て悪覚に溺れることなく仏法に辿り着けた者は本当に幸いである。

正しい祈りを持てることはそのまま救いである。

それは無傷のまま十全と輝くものではないかもしれないが、残存するすべてを燃やしていくような強い覚悟である。

大切なことに気付いた時にはきっと満身創痍であるに違いない。

年齢も重ねていることだろう。

乗り遅れてしまったこともあるに違いない。

しかし、もうそんなことは関係なく今が大切に思えてくるものだ。

ここからだと。

これが自分の人生であると。

そうなって初めて教えの言葉の尊さが心に染みわたってくるのである。

そして整ってくる。