最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

大乗仏教からみる携挙というものについて

聖書解釈の一説によれば艱難時代の前に携挙というものがあるそうで、すなわち苦しみの時代に入る前に真のキリスト者は天に召されるということらしい。

 

仏教では苦を智慧に変えて智慧によって解脱し転生出離するので、真理に到達した者はこの身このまま極楽浄土ということになる。

 

携挙されることを期待すると間違うのではないかと私は思った。

少なくとも仏教からみると間違いである。

つまり、目的のある信心というのは信心ではないからである。

艱難時代に苦しまないために信仰をするというのではイエスキリストには届かないのではないだろうか。

 

少し口を出すのには少し根拠がある。

東方キリスト教大乗仏教に影響を与えたという説がある。

これはこれで私はいいと思っている。

大乗仏教はそれまでの修行を克服する形で生じたものであるから高徳の天才達がその卓越した霊感を通して教義を磨き抜いたものであるならば、それでよい。

 

この記事は高橋剛一郎先生の携挙の説をyoutubeで聴いた後に書いている。

私は先生が三段論法を用いた点が間違いだと感じた。

法学的な言うならば、法律を根拠に憲法を解釈するのと似ている。

下位規範を根拠に上位規範を解釈するのは間違いである。

敷衍すれば、高橋剛一郎先生の説だと論理学で聖書を解釈していることになるが、信仰としてそれでよいのだろうかという素朴な疑問がある。

私は高橋剛一郎先生が自ら紹介された反対説の方に親近感を抱く。

艱難時代においてこそ布教に励むべきではないだろうか。

 

いずれにせよ、人に思いやりをもつという点では仏教もキリスト教もないのであって教義の究極的な中心点はそれぞれであったとしてもそれが先鋭化する場面など全くないだろう。

 

艱難時代は来るだろうか。

私は来ると思う。