最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

目の前の快楽のために理念を忘れるような負け方

たとえば、目の前のりんごは、それをあるとして人々は同意できるだろう。

物についての認識は共有しやすい。

しかし、それが真善美といったような概念になってくると途端に見解がばらけてくる。

政治主張などは最たるものかもしれない。

これは主観と客観の一致の問題である。

(実は、これを飛び越えることができるのは信仰の世界しかないのである。)

 

さて、アメリカの自由主義は、伝統的な社会契約説がまさに現実化したものである。

そして、戦後の日本の憲法も同様の理解の上にある。

どれほどの国民がこれを理解しているか。

憲法というとすぐに日本国憲法というローカルなイメージしてしまう人がほとんどではないだろうか。

そして、おそらくほとんどの人がニュアンスでしか自由主義や民主主義を語れないだろうと思う。

というのも、教えている人が教えられていないからである。

憲法というのは、ぼんやりとした世界史的概念である。

アメリカの憲法もまたアメリカで全く新しく生まれたというわけではないのだ。

 

このような脆い理解しかないあたりが中国マネーに対する親米派の最大の弱点であるかもしれない。

お金は具体的で分かりやすい。

ここである。

理念が理解する気がない人はお金に頼ることが多いのではないだろうか。

金融屋などは良心すら捨てている。

 

中国共産党は、お金や性を使って人を堕落させるという古典的な手段を使うようだ。

この国難に有能なリーダーが真剣に自由主義を訴えたとしても、日本の大衆がその重要性を理解でないと民意の統一が出来ずに、コロッと中国マネーに侵略されてしまう可能性はあり得る。

私はそこを少し心配している。

 

ただ、運がよかったのは、香港デモを間近で観察できたことだろう。

台湾も頑張っている。

彼らは自由主義の意味も民主主義の有用性もよく理解しているからデモが続くのである。

日本人にできるだろうか。

いざという時に中国共産党と戦えるだろうか。

戦うためにはその背景にある論点の重さを感じ取るまでの深い理解が必要なのだ。

主権者教育というのは確かに重要であるとひしひしと感じている。