最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

契約観念から脱し瞑想状態へ

少し早く起きて子供の朝食を作るようにしている。

これをやっている父親は少ないのではないだろうか。

このブログで提唱しはじめている独身の確立活動の一環でもある。

掃除家事は修行の要であるが、その拡張版といってもいい。

 

私には西洋流の契約観念が戦争の因であるという観察がある。

なんでも自分ができるときには自分がやる。

これが日本流となっていって欲しい。

役割分担が最初にあるから紛争が起きるのだ。

全身全霊という言葉はこの日本流の文脈で使うべきである。

自分にできることは自分でやるのだ。

 

損をした感じなるだろうか。

そこを変えていかねばいけない。

そこが魔となっている。

言いたくないが、最近の中東紛争等をみるに、西洋人にはその損が乗り越えがたいのかもしれない。

確かに西洋人には理らしく物事を整理することには長けている。

しかし、霊性を見落としていると言わざるを得ない場面は多い。

 

よく瞑想をして、進んで行くことが大切だ。

私は最近、合計1時間近く座した瞑想をしている。

呼吸瞑想であるが、素晴らしい効果を得ている。

脳の活力を発展維持する方策を得た勢いである。

脳がよく言うことを聞くようになる。

誰でも出来る事であるけれどもできないことが瞑想ではないだろうか。

(神経の)疲労回復にも一番効くことは前回の記事でも書いた。

 

己のなすべきことをなしたらあとは放っておけばいい。

周囲が波乱にまみれようともそれはそれとして引き受けるべきところに向かうのみである。

焦って絡んでしまうのは、損にとらわれているからだ。

 

まずは戒を持することだ。

積極的に持することで整ってくるものは必ずある。

理屈の上に乗るのではなく、実践の上に乗っていく。

それが最も安定した道となっていく。

 

 

 

 

瞑想は苦痛を激減させる

瞑想を継続している。

活路はここしかないという思いがあるからだ。

時代の濁流が迫っている。

そのただなかにあって、正気でいられること自体がもはや最高の価値であるように思い始めている。

私も他の諸々の価値をわざわざあえて否定するようなことはしない。

投資、旅行、グルメ…どんなこともあっていい。

しかし、人生の終末の一瞬から逆算するに、人生の価値は必ず慈悲や愛といったものに収斂されていくはずである。

 

ここ数日やや風邪気味であるが、瞑想があればたいしたことではない。

走れない。筋トレができない。

これもとりたてて不都合ではない。

座する場所さえあれば問題ないのであるから。

 

家族との関わり自体が最大の魂の修行であるから、そういうものであるから、時にきついこともあるが、しかし瞑想があれば、30分もあれば切り替えられることに気づく。

放っておけばいい。

この確実な発想は瞑想を抜きには得られない。

 

この今の関わりのなかにあって、愛他で結んでいく。

他に善をぶつけていくことではない。

愛他で結んでいく。

この連続が活路である。

これが自身を律することであり、私には独身の確立と思えるものである。

 

瞑想がなければ不都合なことばかりが起きる時代になる。

呼吸が乱れた分だけ苦しみは増すだろう。

欲望は刃となって身と心を切り刻んでくる。

個人にとっては戒定こそが核戦略兵器のようなものである。

 

やることはやった。

この後悔のない心境こそが目標であるように思う。

 

怠らず励む。

これに尽きる。

 

 

 

 

究極の疲労対策

最近のジョグは7キロから10キロのレンジでやっている。

幸せだ。

1月からリスタートしたことはこのブログでも触れた記憶があるけれども、2月まずまず走りこんで3月は急がずにあえて10日ほど体を休めて4月から懸念なく走っている。

3月にランをディロードしたのはやはり正解だった。

とにかく、急ぐ必要はない。

一番いけないのは故障である。

ただし、ランのディロード中は筋トレにシフトしていた。

懸垂はワイドで5回(笑、やっとできるようになってきた。

前も書いたと思うけれども、自宅でトレーニングするならベンチとダンベルを先に買うよりチンニングスタンドを先に買った方がいい。

結局、ダンベルでできることは腕立て伏せの工夫などでできる。

懸垂とディップスをはやく始めた方がいい。

おそらくその方が筋トレをやっている感は増すので(笑、先にやりはじめて細かな筋トレを研究する過程でダンベルやベンチを揃えるのがいいと思う。

背中の方が重要なのだ。

器具は場所がとられるので、チューブで十分という選択肢もあるだろう。

歳を重ねてくるとボディーメイクというより人生の目的に合わせた健康の方が大切になってくる。

 

前置きが長くなってしまったが、疲労対策として瞑想はおすすめだ。

一日を精一杯生きた結果、疲れて頭が回らないといった日はあるだろう。

そういうときはすぐに瞑想をする。

最低15分あれば切り替わる。

驚くほど切り替わるので是非試してもらいたい。

危機をあおられて知らぬ間に偏桃体が過活動状態になっている。

これが疲労の原因。

瞑想はそれを鎮める唯一の方法だと思う。

瞑想をすればもう一試合挑める。

 

止められない思考に気付く

思考に流されるともっていかれる。

思考は玉石混交。

よい思考もあれば害ももたらすこともある。

思考は止め難い。

なぜであろうかというほど止め難い。

ボーとしているはずなのに何か思い出してくる。

一度思考を止めてみて欲しい。

あっという間に何かを思いはじめることに気付くはずだ。

 

自我とは思考のことかもしれない。

もう少し複雑なのであろうが、ざっくりと言えばそういう言い方で外れてはいないだろう。

思い返すと、どれだけその思考を真に受けて時にはしゃぎ時にわが身を痛みつけてきただろうか。

 

思考は止める事が出来ない。

しかし、真に受けることで苦しむことが多いことが分かれば、その思考というものを観察する視座を設けることで思考から少しばかり間をあけることは可能であるように思う。

瞑想において呼吸に集中し、浮かんでくる思考を否定も肯定もせずにただ観察する。

そうすると徐々に呼吸が深くなり、だんだんただ心地よくなってくる。

そこに理屈はない。

ジョギングをする。ただ、足裏に伝わるリズムと呼吸に集中すると自然と思考が薄くなって気分が明快になってくる。

そこにも理屈はない。

 

心地よさは大切だと私は感じる。

秘訣は身体の脳以外に目を向けることだと思う。

瞑想、ジョギングの他に筋トレもいいと思う。

これらをしっかりやっておくことは、思考の濁流に流されない杭を一本打ち込むことになる。

今日も誰かが思考のせいで自殺しているのだ。

もう自分はダメだとか死にたいとか、これらは思考の産物である。

脳だけになってしまった末路といってもいい。

 

 

善とは独身の確立のことである

善に向かうならば、何事も自分自身でやっていくことである。

結婚していようがいまいが、独身を確立していくこと。

これが他に見返りを求めずに済む行き方であると私は思っている。

なぜ腹が立つのか。なぜ怒るのか。

それは他に求めるものがあるからだろう。

これだけやったのにとかなぜできないのかという思いは危険なのだ。

非常に危険である。

ガソリンに火を近付けるようなものだ。

 

意識の深奥に溜まってしまっているヘドロのようなものを吐き出して魂をコツコツ磨いていく。

今日一日にどれだけ善を積めたか。

自らに問うべきは本来そこだけである。

磨かれた魂をもって生きる。

そうすれいばそこには肯定も否定もないただ生き生きとした境地がある。

 

朝起きて夜寝るまでに間になすべきことはたくさんある。

自らがなしうるすべてを出し切っていくことが独身の確立である。

仕事はもちろん大切であるが、掃除、料理といった家事は宝の山であろう。

真心を尽くせばそのまま利他行となる。

 

自らを振り返れば、心が燃えさかっているような人がいることは想像に難くないはずである。

多くの人が自我の網に絡まり他を妬み他責しながら生きている。

他から思いかけず迷惑をかけられることがあっても、そうした事情を先に思い浮かべることが大切である。

可哀そうだなという思いをもっていくことが大切だ。

そして、自分の見返り、自分は今独身の確立に向けた道にあることを絶対に忘れないようにする。これが祈りというものだ。

あとは過ぎ去るのを自然に待つのみである。

心のヘドロとしてはいけない。

 

心身のエネルギーはあらためて尊いと思う。

このエネルギーがなければ人は魂を磨くことはできないだろう。

病に伏せたとしても道はあるが、健康ならばそれ以上の宝はない。

 

 

 

性エネルギー昇華の実践とは魂の修行

多忙を極める3月である。

PTA会長として子どもの卒業式で祝辞を読まねばいけない。

この役目がけっこう重くのしかかっていた。

2週間ほど考えて1300字程度の文章を作ったのであるが、大変だった。

独断的にならずに気持ちを込めるという方向は案外難しい。

明後日が本番。

昨日は床屋に行ったりと細々したことやった。

礼服やネクタイも新調するなど費用もかかっている。

わが子が関わるとなると手を抜けなくなる。

これは半分くらいは煩悩であろう。

 

性エネルギー昇華の実践の効用として感情による消耗に強くなることを発見する。

繊細な人ほど性エネルギーは防御となるはずである。

性エネルギーはそれを具体的な目標と直結せねば意味がないが、それに付随する様々な障害に対する免疫ともなる。

栄養と運動と休息というリズムのなかで性エネルギーをみなぎらせるわけであるが、瞑想により偏桃体の過活動を抑えつつ、性エネルギーのうちがわに意識を入れることにより怒り等の感情から離れそれによる消耗をかなり減らすことが可能になる。

禁欲は意味がないという人が増えているのは、これはこの破滅の時代のためだ。

そもそも禁欲という表現が極めて表面的である。

本旨はそうではない。

むしろ希望の実現にある。

健康に悪いだのガンになるだの、全方位的な老病死の宿命を知らぬものたちの戯言にすぎない。

肉体は必ず滅びる。

そして肉体に拠った意識も必ず滅びる。

 

力は一点に集中させて希望を実現させるためにある。

この希望に何を込めていくかは品性だ。

しかし、この実現を多く体験しなければ、おそらく悟りへ向かうことはできない。

ここには信じる力という現代社会によって弱められた要素を強化するという実践が伴うからだ。

 

やれる!と何時間信じていられるか。

普通は10分ももたない。

思考というものは自ら止まることはできない。

5感に訴えてあらゆる隙をついてくる。

脳も臓器のひとつとしり魂を中心にすることが大切だ。

魂を信じる力を鍛えていくこと修行ともいえるだろう。

日々の読経修行や不飲酒戒をはじめとした五戒も、この鍛錬の妨げになるから禁止なのだ。

 

 

 

 

善の共振こそが幸せの場である

走り込んでいる時の心境は最高だ。

前向きで雑念にとらわれている暇すらない。

ただ決めた目標まで走る。

それだけだ。

 

人格的な磁力、もしくは波動、そういうものは確かにあるように思う。

あの人といる時はやる気が出る。

あの人といるとなぜか力が出ない。

いろいろある。

 

しかし、磁力というものは自らが発している。

相手がどうのということでは本来ない。

共振の問題である。

やる気が出るのは、双方のやる気の共振があるからである。

 

自らを整えていく。

そして、他に翻弄されないことだ。

相手にあわせて悪い意味での共振をする必要はない。

やる気のない人間が「だりー」と言う。

それが人間関係の潤滑油としてのさりげない挨拶ようなものであるならば微笑みで返せばよいが、やる気のなさが本当のものであるならば、適当に理由を作ってその場から去るべきだろう。

 

こういう関係においては仏教は役に立つ。

なぜならば、誰とでも仲良くせよとはお釈迦様は一言も言っていないからである。

むしろ、自分と同じかそれ以上の者以外とは付き合うなとまでおっしゃっている。

若い頃はこの言葉の意味に実感がわかなかったが、最近では痛いほど分かる。

 

自分の環境を嘆かない方がいい。

それは恥だ。

周囲の状況はまさに自分自身が奏でているものと共振したものであるからだ。

阿呆が多いならば、阿呆と共振している自分がいるということである。

自分の境遇には責任があるということだ。

 

定が大切なのは、この共振作用にある。

カルマに振り舞わされないことも同様である。

智慧をもって受入て正精進をもって定としてただ智慧をもって苦難を去るのを待つ。

こうすることで、次第に善なる共振作用が強くなってくるのだ。

 

これが今日の走り込みで得た直感である。